求日语作文:『私が好きな人』要求400字。。帮帮忙。。
- 提问者网友:别再叽里呱啦
- 2021-01-27 10:52
- 五星知识达人网友:青尢
- 2021-01-27 11:47
この世の中で、谁でも自分の好きな人がいるんだと思います。私もそうです。彼女は私の高校时代の友达です、彼女は私の自分の人生に対して、特别な意味があって、彼女は私の好きな人です!
寂しい高校时代では、人々は自分の将来のために一所悬命勉强をしました、たぶん周りのクラスメイトや友达のことについて全部无関心だと思います。だから私はとても寂しい感じが出てきました。そのとき、私は彼女と付き合って、二人は多い共同点があってということを発现しました。彼女の性格は明るくて、成绩もいいです。だから、よく私を手伝って暮れましだ。私二人とも文学が好きで、よく一绪に好きな文章を読んで、その文章の美しさを分かち合いましだ。それは一生に忘れない记忆だと思います。
私二人は高校时代から、今までもう5年経ちましたが、今、一绪に学校に行く事が出来なくても、われわれの友情が相変わらず変わってません、いつも电话をするとか、电话メールとか、サイトでのチャットとか、してますから、お互いの感情が変わってません。
先月のある日、彼女に会いたいと电话にて、言いましたが、彼女はすぐ私のそばに合ってくれました、本当に感动させました。いつまでも友たちになるように希望してます。
心友というのは、苦しい时にも傍を离れなくて、応援してくれるし、うれしい时に一绪に分かち合うし、つらい时に慰めてくれるし、こういうような心友が持っている自分が幸せだと思ってます。
これからの道はまだまだ长くて、もっとたくさんの人が会うことになっても、彼女との友情はいつもまでも変わらないと思ってます。
应该不会重吧 写了半天的
- 1楼网友:归鹤鸣
- 2021-01-27 13:20
- 2楼网友:蕴藏春秋
- 2021-01-27 12:34
- 3楼网友:鱼忧
- 2021-01-27 11:55
第一篇
最近、ごみ問題のニュースをよく耳にする。その度に目に入る大量なごみの山。特に近頃はプラスチックなどが増加傾向にある。ごみは、私たちの生活が便利になるにつれて増加し続けるだろう。そして、この「ごみ問題」は今の生活のままだと永遠に解決せず、むしろ悪化し続けるはずだ。 昔の生活と今の生活を比較すると、「食べる」ということだけでも随分と違いがある。現在、家庭から出される食べ物にかかわるごみの量は、生ごみ類よりもプラスチックの容器やポリ袋の方が多い。我が家でも、野菜や果物の皮、魚の骨などよりもペットボトルやカップ麺などの容器、野菜が入っていた袋、おかしの包装といったごみの方が明らかに多い。多分、昔はこんなに容器や袋といったごみはなかっただろう。祖母や母の話によると、昔は家の近くまで自転車に乗った豆腐屋さんが売りに来て、それをお鍋を持って追いかけたと言う。しかし、私は自転車に乗った豆腐屋さんなど見たことがない。実際、スーパーマーケットへ行ってみると包装されていない豆腐などない。綺麗に一つずつパックされて売っているのが当り前だ。他の食べ物も、美しく目を引くように包装されているのが普通だ。今は、パッケージで商品の売れゆきが左右されると言われているほど、パッケージには大きな力がある。なので、多くの企業がデザインに力を入れ、商品を美しく見せる努力をしている。他にも商品を使いやすくしたり、長期保存できるようにする効果もある。だが、そのパッケージというものが地球を汚しているのだ。昔ながらの食べ物の売り方の変化に加えて、「便利さ」を追求した商品が急速に増えていることも、ごみの量を変化させている原因の一つだろう。カップラーメンやレトルト食品、冷凍食品は手軽でおいしいし、たくさんの人がよく利用している。私もその一人だ。でも、品質を保つためにたくさんの包装を必要とするのが短所だ。現在、スーパーマーケットやコンビニで売る際に、包装せずに売るということは、ものによっては衛生上よくないし、品質が良い状態で売れなくなるし、不可能なことだ。でも、その他で、無駄を省くことはできるのではないか。例えば、冷凍食品のシュウマイなど、使うときは便利だと思うが、中をトレーで小分けしなくても少し不便になるだけで、それほど変わらないと思う。無駄の多い商品の例だ。 しかし、最近買った納豆にはびっくりした。前に買ったときには、普通の納豆と同じように納豆の上にシートがあって、その上にタレやからしの袋があった。だが、この前に買ったときには、納豆の上のシートがなかった。そのままフタがしてあって、タレなどは容器の外に付いていた。石油が高くなるという理由もあるが、この納豆のシートがなくなっていたことには驚いた。もちろん、品質にも問題なかったし、それより手間が省けて楽だった。今までは気付かなかった小さなことだが、こんな少しのことでも確実に無駄は省けるのだ。このように、たくさんの企業や店に無駄を省く努力をしてほしい。商品を売る上で見栄えは大切であるが、包装を必要最小限にして美しく見せる必要があるのではないか。また、商品の便利さはウリになるが、便利さだけを求めて工夫して売っていても、実際になくても大丈夫なものはたくさんある。少しのゴミの違いも今度の地球には大きな違いとなって現れてくるはずだ。ごみを減らすためにまずは、やがてごみとなるものから減らすべきだと思う。 私たちが抱えている「ごみ問題」は、私たちが利益を求め、より便利な生活になるように改善したり、より楽な生活を送れるよう追求してきた結果である。今となっては、それが悪影響となって地球の表面にごみの山という形で表れてきている。見ただけで地球の苦しみは伝わってくる。私たちが楽をするために地球が苦しんでもいいのだろうか。今はいいと思っていても、時が経つにつれ後悔する日が近づいて来るだろう。気づいた時にはもう手遅れで、私たち人類と地球が共存するのは不可能になっていると思う。それを防ぐには、今から心がけるしかない。少しずつ改善を積み重ねるしかない。 数年前の日本の生活は決して今ほど便利ではなかっただろうが、十分生活できていたはずだろうし、明らかに今より無駄は少なく、地球に優しい生活をしていた。今の社会は昔の生活と今の生活を「便利・不便」で比べ、「楽」に「便利」にということばかりを求めるのではなく、地球に優しい生活を見直し、身近なところから「無駄を省く」努力をする必要がある。
第二篇 「もったいない」と言える世界へ
私が生まれるずっとずっと昔の日本には、「もったいない」という言葉があった。人に対してなら、力量、手腕からいって使いどころがあるのに、場を得ていないとか、これからだというのに亡くなってしまったとか、といった場合に使われる。 モノに対してなら、まだまだ十分に使えるであろう物が無造作に捨てられているというような場合に使われる。だから、私にはこの言葉には、人やモノに対する哀れみや思いやりといったものが込められているのではないかと思う。 だからこそ、かつての人々はモノの命を最後まで使いきったのだろう。そして、その頃には、確かにこの「もったいない」という感覚は、日本人の心の中に存在していたのである。 ところが、今の日本人は、「もったいない」なんていう感傷的な感情よりも、もっと新しいものを、もっと便利なものを、という欲望を満たす為、人であろうとモノであろうとそれよりも良いものが見つかれば、いとも簡単に切り捨てられていく。そちらのほうが人々にとって当たり前となってしまった。その為、「もったいない」という言葉は少しずつ人々の心の隅に追い込まれていった。 実際に、私にはモノを最後まで使いきるよりも使いづらくなったらまた買えばいいという考え方が定着している。例えば、鉛筆を鉛筆けずりで削る事が出来無い長さになれば、捨ててしまう。カッターで削ったりしてまで使おうとは思えない。なぜならば、お店に行けば、もっと可愛いものや、もっと使いやすいものが、沢山あるからだ。私は今まで、使いづらくなればまた新しく買えばいい。そう思っていた。いや、今もその考えが捨てきれていないだろう。 しかし、モノを大量につくり、それを惜しげもなく使い、そして飽きると捨てる。そういう生活は、もう終わりにしなければならない。そうしなければ、私が大人になった頃や私の子孫が私の年齢ぐらいになった時、みじめで苦しい生活を強いられるだろう。このことは、ほとんどの人が認識しているだろう。 では、実際に何ができるのだろうか。まずはモノを買う時、これは本当に今、買わなくてはならないほどに、「なくてはならないモノ」なのかをよく考えなければならないと思う。 しかしどうしても、「別になくてもよい」と、「あったほうが便利」を天秤にかけてしまう。でも、この時に少しぐらいいいだろうと思って、自分に甘くしてしまうと、その時はよくても、後々に後悔するのは自分自身だろう。でももう、そうなってからでは遅いのだ。今はもう、自分に甘くなんかしている時間も余裕もないのだ。もう、その甘さの代価を払う時は、すぐそこまできてしまっている。だからこそ、「なくてもよい」と、「あれば便利」を天秤にかけたとき、「自分や自分の子ども達の未来」と、「ほんの少しの便利さ」をかけていると考えれば、後者を選ぶ人は、そうはいないだろう。そうやって「あれば便利」という考え方から、「なくてもよい」の考え方に変えていけたなら、暮らしの中から不必要な物はだいぶ消えていくだろう。生活の中で「なくてはならないモノ」というのは「あれば便利なモノ」に比べて、本当に少ない。 例えば、車。人によっては「なくてはならないモノ」かもしれないが、別になくても大丈夫ではないのか。と思う事がしばしばある。例えば、自転車で十分ぐらいのデパートに買い物に行く時、車は必要だろうか。確かに、「あれば便利」かもしれないが、別に「なくてはならない」というわけではないだろう。もしもこの時、車でなく、自転車で行ったならば、もちろん、自転車なので、排気ガスは出ないし、ガソリン代もかからない。もしもダイエットをしようと考えている人がいるなら、買い物に自転車でいけば、いい運動になり、ダイエット商品とかを買うお金が浮き、モノの無駄も減る。そして、環境の為になると、いい事づくしである。 他にも、携帯電話やパソコン、割り箸、紙コップ。その他にも、クーラーやテレビ、電気を消さないで寝たり、好き嫌いをし食事を残したりと、昔の人が私達の生活を見たら、「もったいない」が多すぎて、呆れ返るだろう。 私達日本人は、急激な産業などの発達で昔では考えられないような便利さを得た。しかし、昔と比べ私達はモノを軽視し、「もったいない」なんて思わなくなった。しかし今、この「もったいない」という考えが必要になってきた。すぐに、考え方を変えることはできないが、ゆっくりと一歩、一歩、「もったいない」という言葉の聞こえてくる家に、町に、そして日本に、そして、そして世界へと変えていかなければならない。
都是优秀作文,摘抄加工就可以了 ,别忘了选为满意答案哈~